大栗道榮の密教塾 修行僧の声


大栗道榮の密教塾 修行僧の声

◆やっています!こんな私でも  ~ 修行(生活)の活動日記 ~


【 第16期生 純榮 】 ~初大師日(一月二十一日)に思う事~

純榮 お坊さんになるための修行と加行といいます。
行いを加えて(重ねて)いくことです。
何のために重ねているのかを自分に問いかけてみました。

今の自分の答えです。
〝生きているから出来る事〞があり
〝生きているからしてしまう事〞があることを加行することによって、
自らが行なっていることを知らされました。

如法衣(袈裟)を左肩にかけるとき、それを感じ神仏(宇宙)の御力を借りて(通して)
迷い苦しむ心の中を清浄にして生きてゆけるように…と念じながらまた加行する。
縁をいただけたのは自分の事だと気づきました。

〝密教〞とは〝実行する〞教えですから縁をいただけた事を感じながら、
重ねて生けるように、学びながら、また問いかけながら続けていこうと思いました。




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【 第20期生 榮研 】 ~おごり高ぶった己を反省~

榮研 【今日のダメ】
6月12日に行なわれたスクーリング授業の朝の勤行(ごんぎょう)でのことでした。
私は妙喜先生より讃頭(仏教音楽の声明で仏さまを讃える歌の歌い手)を仰せつかり、鼻息も荒く意気揚々と讃頭に臨んだところまでは良かったのですが、
讃が始まるやいなや先生の「一喝」が飛んできました。
「何だぁその幽霊のような由り(ビブラートのようなもの)は!ダメ!!」
「それと鉢(シンバルのような楽器)のさばき方が雑っ!ダメ!!」と。
きつく激しいご指導にさっきまでの自信はガタガタと音を立てて崩れていくのでした。

【でも明日から】
仏さまを讃える声明は、敬虔な気持を持つことが一番で、
「譜」の通りに正確に習礼(練習)すれば絶妙な声明の味わいがわかってくるといいます。
それと「鉢は法具である。
敬うこと仏菩薩の如くせよ」といいます。
以上のことを踏まえ、おごり高ぶった己を反省し、懺悔し、修行していこうと思います。




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【 第20期生 伸榮 】 ~すべてを受け入れること~

伸榮 今日は大切な星まつりの法要の日でした。
そしてお経のリーダーを仰せつかり「えぇ私が…」初めての大役です。

しかし、これは密教実践になくてはならない“すべてを受け入れること”の実践です。
先生をはじめ先輩の助言を受け、素直な心で「受け入れる」ことにしました。

無事、星まつり法要を終え、「受け入れる」とは全員の動きをキャッチしながらリードしていく事と学び、新たなる自信につながりました。

と、大喜びで帰る電車の中で・・・
「カボチャを切ってね」と妙喜先生に頼まれていたことを先生の顔と共に思い出し、
やっぱりすべてを受け入れることの難しさを噛みしめた1日となりました。




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【 第20期生 榮研 】 ~木偶の坊~

榮研 今日の教えの中で、人の話を聞くときは「ただの木偶の坊」になっていなさい
と教えを受け、徳島の人形浄瑠璃の木偶を思い出しました。
そこで、家に戻りまとめてみました。
木偶の坊とは「役にたたない人」ということですが、木でできた偶(人形)は口を開きません。
でも人の心をひきつけなぐさめてくれます。
その人の横で、うなずきながら耳だけを傾けてあげることです。
その間、話をしている方は安心しています。
その時に、相づちだけで口をはさんだり、意見を言わないこと。
その時、あなたは木でできた人形なのだから口は無いのです。

出来るのか?と思って実行してみると、
目の前にある無言の木偶の坊は耐えることを教えてくれ、拝む対象になるんだという事を私に教えて下さいました。




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【 第21期生 妙真 】 ~観音経によっての修行の仕方と生活の仕方~

妙真 はじめて観音経を読んだのは高校生の時、その時は「どんな災難にあっても観音さまの名を唱えれば、みんな救われる」という内容で、無知で仏教を知らない自分はバカバカしいと思っていまいしたが、今勉強してみると、これは生きているうちに知っておかねばいけない事が書いてあり、とっても深い深いありがたいお経だと気が付きました。
自分はこれを勉強していきたいと思いました。

【今日のダメ】
 朝のお勤めの時、お経のリーダー(経頭)をしていたら「違う!」という声が聞こえて、幻聴か?と途中で唱えるのを止めてしまいました。
ご本尊様が正月ボケをしていた自分を、また優柔不断な性格を怒って戒めたのか?ド真剣さが少し薄れていたのではないか?とドキドキしてしまいました。
これからはきちんとド真剣に修行して行きたいと思いました。

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ご本尊様のお供えのお餅、昨日油で揚げて、おかきにして食べました。
会社の人たちにもお福分けしたのですが、ありがたいと言って喜んで食べる人、ただ何となく食べる人、食べない人と反応は様々。
ご本尊様から人間観察をしなさい!と言われたようでした。
ありがとうございました。




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【 第24期生 庸弘 】 ~しっかり薫習(くんじゅう)~

庸弘 【12月21日の修行】
21日は大日寺の大切な行事“供養祈願護摩”の日です。
そして、お坊さんの資格をいただくための修行の中で最後の護摩を焚くための用意と片付けをさせていただきました。
“あぁ、やっとここまで修行が出来た!”という喜びと不安の中でお坊さんになるための入口に立ったと思える一日でした。

【今日のダメ】
ところが、用意する事はOKが出たのですが、片付けが指示通りに出来ませんでした。
用意されている物には、それぞれの意味があり、また、掃除の仕方や順番にも意味がある。
もっと大切なのは、掃除をする時の心の持ち方だという事を先生の片付け方を見て、よりよく分かりました。

【でも明日から】
今日教わった事、失敗した事を文章で整理して、しっかり薫習(物に香りが移り沁みるようになるまで実践していくこと)してゆき、物にはそれぞれ意味がある事、仕方や順番の大切さを理解して日常生活に応用してゆき、師僧の護摩壇を大切に保ち、皆様の供養祈願を大切に出来る。
そんな坊さんになりたいと思います。




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【 第28期生 妙癒 】 ~おかげおかげのげで生きよ~

妙癒 【今月のダメ】
まだ、よく分かっていないのに途中で口をはさんだり、みんな(先輩たち)のお蔭があって、やっと法衣もつけられるようになったことも忘れて馴れ馴れしくした態度はよくありませんでした。
住職からの“おかげおかげのげで生きよ”のお言葉を思い出し、反省の一日でした。


【デモ!これからは】
看護士として寝たきりの方の心が汲み取れる同事の気持(相手と同じ目の高さでものを見ること)で「ありのまま・あるがまま・生きていてくれてありがとう」と心から思える坊さん看護士になれるよう明日から出直します。




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【 第16期生 純榮 】 ~加行(修行)を続けることが答え~

純榮 手術をしてから無理をしてはダメよの言葉に甘えて修行を休むことが多くなり、また略してする事が多くなりました。
でも“やめる”“やらない”はしないよう心がけました。
なんだか“なまけもの”のようになりました。
そして、まず自分が自分がとなっているようです。

でも、気が付いてみると大日寺と繋がっている自分は間違った道に堕ちていくことなく、人との信頼関係も良くなり、仕事も家庭でも楽しくなってきました。
なまけもののようになっていると思うのは気持ちのどこかに穴が開いてしまったのかもしれません。
修行を続けるために新たな目標が必要なようです。
その答えを頂くために加行(修行)を続けることが答えだと分かりました。




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【 第21期生 妙真 】 ~“ミニ”悟り(わかったこと)~

妙真 【ダメ:1】
供養提灯の掃除をしていたら集中出来ず嫌気がさしてきました。
私の性格がでてきました。

【でも】自分の性格を再確認するよい修行でした。
いつも、どんなことがあっても同じ調子で同じ気持で出来るようになることが修行だと気付きました。

【ダメ:2】
いつも家で読んでいるお経なので、つまるはずがないと思っていたのに朝のおつとめでつまってしまいました。

【でも】この「はずないのに」が原因です。
生活の中でも同じです。
修行は終わりがなく、いつも初心だと思い積み重ねです。
少しぐらい出来たという驕りたかぶりはご法度、自分をダメにすることと気付きました。
また一から修行します。

【ダメ:3】
習礼(練習)不足で、音をはずして気を抜いている事に気がつきました。

【でも】あずきが食べたいという先生のために、あずきを煮ました。
そこで気がつきました。
先生が食べたいのではなく、あずきを煮ることが修行そのものだと。
気を許すと焦げたり、さじ加減で味が違ったりします。
修行も同じことだと気付きました。




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【 第20期生 伸榮 】 ~日々の積み重ね~

伸榮 私はお坊さんです。でも、平日はパンを作る工場で働いています。
その職場でよく訊かれます。
「なぜ、お坊さんになろうとしたのですか?」
「お坊さんをやっていて楽しいですか?」
そこで「お坊さんとは何か」を考え直してみました。

住職はいつも私におっしゃいます。
「パン屋がお坊さんをしているのではなく、お坊さんがパン屋をしているのだよ。心してパン屋にも坊さんにも励むこと」と。

私たちの意識は行住座臥(ぎょうじゅうざが)という言葉で表現されます。
何かをしている時も、家に居る時も、座っていても、寝ている時も常に「お坊さん」であるということです。

また「お坊さん」の一日の使い方をみても掃除が重要視されており、大日寺に居る時も自宅に居る時も掃除機をかけたり、汚れを雑巾拭きしたり、外周りのゴミを拾ったり、雑草を抜いたりしています。

しかし掃除も大切なのですが、「お坊さん」自身も掃除して心の垢(業)を落とすことが大事なのです。
これを懺悔と言います。

お坊さんには修行がつきものですが、滝に打たれる行や、険しい山道を歩いたり、薪を燃やした熱い灰の上を歩くようなことはしません。

私はお師僧にこのように教わりました。
修行は「深山(しんざん)の千日よりも穢土(えど)の一日である」と。

穢土とは社会や世間のことで、そのなかで様々な事に遭遇して苦い経験をしたり、時には悔し涙を流したり、笑ったりして世間に揉まれることで人間力を培うことが重要だという事です。
障害があっても自分でどうするかを決めること、自分が苦しみを味あわないと他人を思いやったり、誰かを支えてあげる事は出来ませんし、不意におこる不幸な出来事に対応する心の用意がされません。
だから心を鍛えることで人間力をつける、これは「お坊さん」に強く求められることではないでしょうか。

でも、一朝一夕で出来るものでなく日々の積み重ねが大事であって、
大日寺ではこれを修行の1つとしてとらえ実践するのが大日寺の修行生である私たち「お坊さん」です。

なぜそうするのかというと、「お坊さん」も「人」だからです。
「人」は色々な「人」たちと目に見えないけれど繋がっています。
(これを重々帝網(じゅうじゅうていもう)と言って、お大師さまが教えてくださいました)

繋がっている人と人の間をより良くするのが人間力だと考えます。
毎日のなかで人間力を鍛えることで「お坊さん」の質が磨かれていくのだと確信しており、
今日も明日も、線香が熱く燃えるように…情熱を持って修行を積むことが「お坊さんとは何か」ということだと感じます。

【住職より】
『ようわかる。あとは続けること』




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【 第11期生 道昌 】 ~大日寺での再修行~

道昌 大日寺での再修行を始め、妙喜先生より大日寺で修行をしている目的をはっきりさせなさいと言われました。

私が、そもそもお寺に来た目的は、お経をやりたかったからです。
私の祖父母の墓は大阪のとある寺にあったのですが、すでに墓は無くなっていて、無縁仏の骨をあつめて作られた仏像になっていました。
その寺は頭が痛くなるほどの気持ち悪さで、お盆の供養をしてもらうと、お経は上手でしたが、まるでベルトコンベア式で味気ないものでした。

同時期に台湾の友人に連れて行ってもらったお寺での供養は大阪の寺とは全然違い暖かさが感じられ、いつか自分もあんなお経が読めればいいなぁと思いました。
これがおよそ20年前のことです。

その後、2005年に大日寺に入門させていただきました。
当初は、やはり僧籍が欲しいと思いながら大日寺に来ていましたが、どうもうまくいきません。
折しも、台湾での共同経営の話が来て、しばらくお寺から離れていました。

今回の再修行では前のとは違い、自分の歳のせいもあり考えもだいぶ変わってきました。

今までカタにはまるのが嫌だったため、それが原因で人生だいぶ失敗したことを反省して、ひとつの形をきちんと作ろうと思い大日寺に再入門させて頂きました。
今は、あせらずきちんと形を習得することを第一に考えて、お寺に来ています。

課題は、最初の目的であったお経が下手なことです。
四度加行よりも、お経などの習礼に時間を取られていることです。

以前、妙喜先生に言われたカラオケに行くようにしたり、ボイストレーニングにも通いだしましたが、あまり進歩していません。
改めて大きな悩みです。

再入門したからには、背水の陣の心構えでいます。
何とか最後までやり遂げたいと努力しています。
人間、自分の不得手なことをするのは大変です。

先ず、自分の先祖供養のためのお経がしっかり読めるようになる、形と礼儀をしっかりと身につける、その延長で僧籍が取れればと思っています。

改めてよろしくお願いします。

以上、懺悔です。


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【 第16期生 純榮 】 ~教えていただいた事を実践することが本当の修行~

純榮 加行(けぎょう=修行の1つで修行を積み重ねていくという意味)中に膝を痛めてから半年になりました。
加行をきちんと積んで(加えて)いくと霊位が上がり、落着いてきて、周りの気も自分に味方すると思っていました。
そのため自らの分限を見誤り、おごり、瞋恚(しんに)し、過去のトラウマに左右され、人を信じる心を失いかけたりしました。
さらに手を合わせる事を続けられなくなりそうになり、とても不安定な精神状態になりました。

この時の私は十二因縁(自分の生い立ち)にイチャモンをつけ、六波羅密行(ろっぱらみつぎょう)という修行の方法をケリ飛ばしてしまうような気持ちでした…。
なんと恐ろしい事を考えていたのだろうと気付くと両膝の痛みがなくなっていました。
加行がどんなものなのか知っているのか?と、仏さまより試されたと思いました。
加行がどういう風に作用するのか、私にはまだ分かりません。
でも明日から揺らぐ心にクサビを打ち込むため、教えていただいた事を実践することが本当の修行と思い実行していきます。

【妙喜より】
純榮の今の心の中が見えたので、お答えします。
これが自我(自分)の整理です。
膝を痛めたのは、気付きをいただいたのです。
でも、侮ってはいけません。
これが“いましめ”です。
その膝とどう付き合っていくかも大切な修行の1つですよ。




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【 第21期生 妙真 】 ~貪欲でありながら敏速に行動出来るように~

妙真 【今日のダメ】
寺の食堂で、アカヒレという小さな金魚が20匹ほど水槽の中で泳いでいます。
エサをやるとさっと寄ってくるすばしっこいデブ金、そして泳いでいる真上にエサをやっても食べようとしないダメ金がいます。
そのダメ金がやせ細り死にそうです。

そうだ!私も一生懸命教えてもらっているのに受け付けていないところがある。
これはダメ金と同じだ...と気付きました。

【でも明日から】
比丘尼(びくに=女の僧のこと)になる為に修行しなさいとダメ金(私)に教えというエサをまいて頂いているのです。
これからは、ピラニア擬きのデブ金のように貪欲にやります。
でも、あまり貪欲になり過ぎて身動き出来ないデブ金ではなく、水槽の中のデブ金のように貪欲でありながら敏速に行動出来るように明日から修行をしていきます。
今日も一日充実していました。




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【 第11期生 道昌 】 ~諦める事が大事なのか、諦めない事が大事なのか...~

道昌 「諦める事が大事、諦めることを人に教えるのが布教です」と教わり、
とても印象に残りました。

確かに諦める事を伝えないと引導を渡す(あの世〈浄土〉へ送る儀式)事は出来ないだろうと、
そして自分も諦めないと人に伝えられないと思いました。

ところが、その後ネットで「成功の秘訣は諦めない事」とありました。
さてさて、諦める事が大事なのか、諦めない事が大事なのか分からなくなりました。

【住職より】
あなたが思っている「諦める」は、成り行きにまかせて、それ以上考えない事。
本当の「諦める」とは明らか(事情や理由を見定める)にする事ですよ。

この世でやる、終えなければならない仕事は途中で止めないで、やり終えるまでやり通す事、
そして、あの世へ行く時は、いくらジタバタしてもダメ。
その時こそ、成り行きにまかせ、あとは仏さまにおまかせして、それ以上は考えないでと言っているのです。




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【 第24期生 庸弘 】 ~初心に帰って加行の経本を1字ずつ大切に~

庸弘 今日は、お経の読み方のテストがありました。
そして、なぜ加行(けぎょう)という修行をするのかと、
その手順のおさらいをしました。
その前に掃除の進め方、手順についての指導を受けました。


【今日のダメ】
自分ではOKと思っていた加行の手順ややり方が誤っていることが数々見つかりました。
1+1=3だと思って人生を歩むようなものだと思ったら怖くなりました。
また、お経を唱えているのに背筋はのばさず、呼吸が整ってないことにも気づきました。

【でも明日から】
1、初心に帰って加行の経本を1字ずつ大切に読んで、ていねいに加行を行う。
2、お経を唱えるときは常に仏さまに心を向け、呼吸をより大切にしようと心に誓いました。

【住職より】
誓ったことは必ず守るのが坊主の修行だよ。




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【 第28期生 妙癒 】 ~得度を受けてから3ヶ月が過ぎましたが・・・~

妙癒 得度を受けてから3ヶ月が過ぎましたが・・・
今だ如法衣(にょほうえ:大きな袈裟のこと)の付け方、お経の唱え方、 特に讃(さん:仏さまをほめたたえるお経の歌)がきちんと自分に備わっていないので、冷や汗の一日でした。

でも、お師僧さまや諸先輩のみなさまの温かな心は、きちんと私に伝わってきました。

そして、今日はお寺の草取りをしている時、お師僧さまの書いた本の中に
「踏まれて生きる草の心が俺は好き」
を思い出し、笑ってしまいました。

こんな私ですが、こんな私でも出来るまでやります。
よろしくお願い致します。




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【 第21期生 妙真 】 ~他人の言うことや他人のすることに左右されない自分に~

妙真 今日は、お大師日です。
午後より皆様と一緒に観音経や般若心経を唱えます。

その時、経頭(きょうとう:お経を唱えるリーダー)をさせていただきました。
とっても有難かったです。

以前の私なら、即「私にはまだ経頭は無理です」とバチあたりなことを言っていたと思います。
でも今日は不安だらけでしたが「させて頂きます」と言えた自分は、修行が少し進歩したのかもしれません。
ただ、自信がないため、後で唱えている人たちの声に左右され、お経が終わった時にはボロボロな気持ちでした。

これからは“経頭をとりなさい”と指名されたら、
他人の言うことや他人のすることに左右されない自分にしておきたいと思います。

それには、薫習(くんじゅう:習慣によって心や身にしみついたもの)あるのみ。
妙真のそばに行くと、お経の薫りがすると言われるように。

そして、もう一つ。
依頼心の強い私は、時間の観念もなく金魚のフンのように皆の後についていくだけの修行でしたが、
次回からは、たるんだ自分の心に注意喚起します。
今日も充実した一日でした。




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【 第16期生 純榮 】 ~善でも悪でもない、真っすぐな気持ち、ウソのない心~

純榮 その日、友人の一言を引きずる心は瞋恚(いかりの心)でいっぱいでした。
すると今までにお寺で教わって身についていると思っていた事が、何一つ出来ずに終わってしまいました。
この瞋恚の心がせっかく加行(力を加えて修行すること)をして、仏心に近づこうとしている自分を修羅(争いの心)の世界へ踏み入れてしまったのだと気づきました。

4月にお釈迦さまの誕生日の準備をさせていただいた夜、家で加行に入ったとたん、右膝を痛めてしまいました。
“そうだ、物事には必ず意味がある。これは何のお知らせなのか?”
ずっと、その日から考えていました。
“この足を痛めた時の自分の心はどうだったのだろう?”

今思うと、ここ最近の自分の心にはおごりがありました。
誰よりも頑張っていると自負していて、頑張る事が修行だと思い込んでいたのです。
この心のまま続けていたら、途中で止めていった先輩たちと同じになってしまう。

“加行をすることの中で一番大事なことはナニ?”
と、こわい顔で質問された妙喜先生の顔が浮かびました。

答えは護身法とうい観念の内容にありました。
お師僧(弟子は住職をこのように呼びます)の著書『密教入門』を読み直すと、
まず自分の身を護る方法を行うには清らかな気持になって…と書いてあります。
“清らかな”とは善い事のように思っていましたが、最近そういう事ではないと知りました。
善でも悪でもない、真っすぐな気持ち、ウソのない心なのだと。
おごった心、勘違いをしていた心、それによって瞋恚の心を呼んでしまった事に、今回気づかせていただきました。

そして、お師僧がこんな自分でも出来ると言って下さった、その言葉を信じて“やるぞ!”と声に出して言うと、
充実した修行の一日だったと思え、元気になりました。




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【 第20期生 伸榮 】 ~私でも出来るだろうか? 私でも出来る!~

伸榮 大日寺に入門したての頃は、「私に出来るだろうか」と不安でしたが、
お師僧、妙喜先生のご指導を受けて少しずつ「私でも出来る」になってきました。

そして今回ご縁をいただいて高野山で受戒を授かってきました。
僧侶が守る戒律を受ける儀式で、高野山真言宗の僧侶にとって必修なものであり、お大師さまも若い頃に受けられました。
それから脈々と続いてきた受戒なのです。

その受戒を受ける許可をお師僧からいただいた時に、私の頭の中には「私でも出来るだろうか」と心配でした。
私の左足首には古傷があって長い時間の正座などに耐えられるか不安だったのです。
心配ばかりしていると心配事が次から次と起きてきます。

そこで私は「私でも出来る」と心に念じました、念じて念じました。
スポーツ選手が競技の前に成功するためにイメージトレーニングを何回も何回もするそうですが、似ているところがあると感じます。

そして無事に受戒を終えた時に、「私でも出来た」と全身に安堵と喜びが満ちていました。
それは堂内にまつられている仏さま方のお導きがあったことは言うまでもありません。
「私でも出来た」という気持ちは、そのまま仏さま方への感謝の気持ちになりました。

こういうことをやりたい、ああいうことをしてみた、修行らしいことをしてみたいという思いを抱いておられませんか?
躾読本の項目を毎日一つ実践することや(緑色の)菩薩行を朝と夕方に必ずお唱えするなど、ご自分にあった修行を始めてはいかがでしょうか?
「私でも出来る」と念じ、信じて修行されてはいかがでしょうか?



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