雨足(あまあし)多(た)なるも これ一水(いっすい)なり
(どしゃ降りの雨も、その一滴一滴は同じ水になる。)
午前中かんかん照りだったのに午後になって急に空が真っ暗になったと思うと、ものすごい夕立です。
大粒の雨の一滴を目で追うと、それは池の水面に落ちて水滴ではなくなり、小さな波紋が広がります。
その瞬間、つぎの水滴が落ちてきて、さっきの波紋を打ち消して新しい小さな波紋をつくります。
そして、また新しい水滴が・・・
波紋はあとからあとから際限なく広がっては消え、広がっては消えていきます。
『この雨は、どこから来たんだろう?』
大きな雨音を聞きながら疑問も波紋のように広がっていきます。
広い大海原の上を太陽がさんさんと輝いています。
熱い陽射しを浴び海水は蒸発して厚い雲となり、季節風に流されて旅に出ます。
何日も流浪の旅を続けたあげく東京の上空までやって来たとき、気温も湿度も、ちょうど雨になる条件が整っています。
そこで、どしゃ降りの夕立となって地上に落ちてきた、というわけです。
なんの話をしているのかって?
もちろん人の一生の話です。
『雨って人生のようだな』と和尚は考えるのです。
寺での研修会で、よく聞かれます。
「人はなぜ生まれてくるんでしょう?」
「人間の魂は死んだらどうなるんでしょう?」
それは自然現象に聞くのがいちばんのようです。
自然は道理のままに動いているからです。
東京の上空に来て、一滴の雨粒が生まれる条件が整った、ということは「縁が起きた(縁起)」のです。
混沌とした雲から、いま、目に見える形となって生まれた一滴の雨粒は縁あって生まれた人間と同じです。
それにはきっと雨粒の魂も宿っているに違いありません。
その雨粒の一生は、水面に落ちて形が消えるまでです。
人の一生は百年だ、といってみても、宇宙の目から見れば雨粒と似たようなものです。
ダイヤモンドのようにキラキラ光る雨粒も、真っ黒に汚れた雨粒も、水面に落ちると同時にみんな仲良く消えるのです。
どんなに威張りちらした一生も、いじめ抜かれた一生も、同じように波紋を残して、同じ池の水になるのです。
『そうか! あの池の水は水滴の魂の集まりなのか。その水は海に流れ込んでまた雲になり、縁起によってまた新しい水滴になるのか!』
弘法さんも、大雨の日にそんなことを考えたのでしょうか。
「おといれだより」平成31年2月号『第66回 弘法さんのことば』より
弘法さんのことば