六大(ろくだい)の遍(へん)ずる所、これ我が身(しん)なり
(地水火風空識がゆきわたっているところが、己れの体である。)
「人間の体はなにからできていますか?」と尋ねますと、その答えには炭素・窒素・カルシウムなどという科学的用語が返ってきます。
仏教のほうでは、地水火風という四大から成り立っていると考えます。
もうちょっと詳しくいうと、地というのは大地の塵のことです。
この塵のなかには炭素もカルシウムも入っています。
水は水分ですし、火の根元は日光です。
風は酸素や窒素を含んでいる空気を動かして呼吸をすることです。
ここでもう一つ「空」というのを加えます。
この空は、地水火風を入れる風袋、つまり容器です。
これで地水火風空という五大になります。
この風袋は心を入れる容器でもあります。
その心のことを「識」といって、ついでにそれも風袋に入れて、地水火風空識の六大というのです。
識という心はなにをするのかといいますと、四大からできている肉体が目で見たり、耳で聞いたり、鼻で嗅いだり、舌で味わったり、指先で触ったりしたことを「空」が感じます。
空はどう感ずるかというと、目が見たことを美しいと感じたり、耳が聞いたことをやかましいと感じたり、鼻が嗅いだことを臭いと感じたり、舌が味わったことをまずいと感じたり、指先で触ったことを痛いと感じたりします。
そして、空は感じたことを「識」に伝えて判断を仰ぐのです。
識はそれを裁判官のごとく判断して「それは道理にかなっている」とか「そいつは無理だ」とか分別するのです。
そのことを「識別する」というのです。
こうして考えてみると、四大や五大、六大といっても、みんな宇宙の塵が寄り集まってできあがったものが自分の体なんですね。
「じゃあ、俺はなんだ?」と自問自答してみます。
〈俺は宇宙の塵か! そうすると、俺が一所懸命にあくせく働いて貯めたお金も、三十年ローンで買ったこの家も、うちのかわいい娘も、みんな宇宙の塵になるのか〉
そう思って身のまわりを見回してみると、娘とじゃれあっている三毛猫も、ぬいぐるみの犬も、水槽のなかの金魚も、いや台所のゴミまでもが自分と同じように大切に思えてくるのです。
「おといれだより」平成30年8月号『第60回 弘法さんのことば』より
弘法さんのことば