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暮らしに生きてる仏教語

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暮らしに生きてる仏教語

覚悟

覚悟(かくご)

現在では『覚悟はできたか』とか『はい覚悟しています』など〈決心〉したときや、もうこれ以上迷っていられない〈あきらめよう〉というときに使いますが、〈覚〉は気づき〈悟〉は迷いからさめ、本当の智慧と最高の真理を会得したとき僧侶が言うことばでした。


「おといれだより」令和4年4月号より



安心

安心(あんしん)

仏さまの教えを聞き修行を積むことによって、心が動くことがなくなった境地を安心(あんじん)と言います。

安心した僧たちを見て、一般の人たちも、あの様になりたいという願望から、心が安らかに落ち着いて、不安や心配事が無い様子を安心と言うようになったのですよ。


「おといれだより」令和2年6月号より

愛嬌

愛嬌(あいきょう)

『男は度胸(物事におそれぬ心)、女は愛嬌(人付き合いの良いこと)』と言われる今日ですが、もとは【愛敬】と書き、仏さま、菩薩さまが柔和(にゅうわ)と慈悲(じひ)の姿を見せることで人々の心に自然と敬愛の気持を持たせました。

菩薩さまのような姿・形をされていることを愛敬相といったことが始まりです。

昔はアイギョウと濁って読んでいましたが、清さを強調して江戸時代より女の人、商人たちがニコニコして人付き合いの良いことを愛嬌の良い方というようになりました。


「おといれだより」令和2年1月号より

醍醐味

醍醐味(だいごみ)

牛や羊の乳を加工していくと発酵によって次第に味が変化していきます。

乳そのものの味→(らく=酸味のある味)→生酥(なまそ)→熟酥(じゅくそ)→醍醐(だいご=濃くて甘い最高の液汁で、優れた薬効がある)となります。

そこで、これ以上の美味しいものはない時や、「相撲の醍醐味だ」などと、何ものにも替えられない本当の素晴らしさをあらわす褒め言葉として使われています。


「おといれだより」令和元年12月号より



退治

退治(たいじ)

もとは『対治』と書き、人を仏道に専心(せんしん)させるため、煩悩(ぼんのう)の悪魔を降伏させるなど、仏道修行の妨げになるものを断ち切ることを言いましたが、後世では悪い奴を征伐(せいばつ)したり、害をなすものを討ち滅ぼすことに使われ、文字も『退治』となりました。


「おといれだより」令和元年11月号より

大丈夫

大丈夫(だいじょうぶ)

華厳経(けごんきょう)の中に『若し諸(しょ)の菩薩此の法に安住すれば則ち大丈夫の名号(めいごう)を得ん』とあるように、もともとは『偉大な人』『菩薩』の別名でした。

それを今日『間違いない』『しっかりしている』という意味で使うようになったのは、偉大な人や菩薩にあやかってのことでしょうか。

ちなみに、住職に「大丈夫ですか?」と聞くと「小丈夫」と返ってきます。


「おといれだより」令和元年10月号より

智慧

旦那 / 檀那(だんな)

梵語(ぼんご)のダーナということばから日本語の檀那そして旦那と変化しました。

ダーナとは布施のこと。
困っている人に施しをすることの意味です。

それが一般になって、自分を養ってくれる人や、生活を支えてくれる人、雇われ人が主人のことを、妻が夫を敬って旦那様と呼ぶようになりました。


「おといれだより」令和元年5月号より



智慧

智慧(ちえ)

現在は智恵と書き、正しく物事を認識し判断する能力、そして物事に当たって適切な判断をし、処理する能力のことをいいますが、智慧の「智」の「日」の字は太陽・宇宙の原理から「知」ったこと、そして「彗」は「ほうき」の意で、彗星(流れ星)のこと、智慧とは天運からさずかる能力のことです。

空に向って『天よお力添え下さい』と祈ってみましょう。


「おといれだより」平成31年4月号より

突慳貪

突慳貪(つっけんどん)

『ツッケンドンな言い方をするな!』と叱られたことはありませんか?

態度や言葉遣いがトゲトゲしく、心づかいがないことを注意する時に使っています。

本当は「慳」は物惜しみする心(ケチ)、「貪」はむさぼり欲する心(欲張り)の意味です。

それは悟りを得るために1番邪魔な、してはいけない行いなのです。

仏さまが悟ってほしいことは、ケチな反対である他のためになる行いと、自分だけよければよいという欲張りの心を捨てて、みんなで分けましょうという心になってほしいのです。

なのに慳貪の前に突っ張るが付くのは、自分のこと以外絶対に受け入れないという頑な気持のことです。

でも、気をつけましょう。

そんな時、相手もあなたを受け入れてくれません。

これではこちらも損をしますね。


「おといれだより」平成30年11月号より

貪欲

貪欲(どんよく)

仏教語では「トンヨク」と読みます。
貪という文字を分解すると『今の貝』と書きます。

貝は昔、お金の替りに使っていたのを知っていますか?

そうです。
貪とは、たった今のお金が欲しい、利益が欲しい、その上に名声も権力も、思うまま楽しんでみたいという、満足することなくむさぼり求める欲のことです。

お坊さんも人間です。
色々な苦しみの原因は、この貪欲であり、欲より離れなさいと修行をするのですが...。

住職は言います。

「大丈夫だよ。死んだら離れたくなくても離れる定だよ」


「おといれだより」平成30年5月号より



内緒

内緒(ないしょ)

仏教で自分の心の内にある真理を証ることを自内証といいます。

せっかく証(悟)ったことを他人に説明するなどもったいない、「ないしょ(内証)ないしょ(内証)です。」と言っていました。

それを聞いた人が、表に出せない秘めごとの事だと思い、いつの間にか「内緒」という字が当てられるようになりました。


「おといれだより」平成30年3月号より

納得

納得(なっとく)

仏教では師僧が弟子に大切な事を教えるとき、面授といってお互いに向き合って師の口から法を伝ます。

弟子がその教えを求めて、やっと手に入れ利益とすることを得といい、それを大切に自分の心に納めることを納得といいます。

親が自分の子に一所懸命コンコンと言って聞かせたのに納得しないなんて...と、怒るのは師と弟子の関係ではないからかな。


「おといれだより」平成30年2月号より

奈落

奈落(ならく)

地獄のことをサンスクリット語ではNARAKA【ナラカ】といいます。

それが〈奈落〉〈那落〉となりました。

意味は地獄だけはなく、地獄に落ちることまで含まれます。

それが転じて、どん底生活のことを〈奈落の底に突き落とされた〉となり、劇場の舞台の下の地下室は真っ暗で何も見えず、身動きも出来ないほどなので、いつの間にかここも奈落と呼ぶようになりました。


「おといれだより」平成30年1月号より



暖簾

暖簾(のれん)

お寺の建物はご本尊さまを祠り、お坊さんが修行するためのものなので、みなさまの家のようにいろいろなものを置いてありません。

ガランとしていて開放的で冬は風が吹き通って寒いので、座禅堂の入口に布を吊り下げて風を防いだのです。

その布をノウレンといい暖房のための簾なので漢字ではダンレンと発音し唐や宋ではノウレンと発音したのが詰まって日本に渡りノレンとなりました。

それを店先の風除け、ホコリ除けに使っているうちに、屋号や店名を入れて看板の役目もするようになり、あげくに「暖簾に傷がつく」とか「暖簾分け」ということばまで生まれました。


「おといれだより」平成29年9月号より

バカ

バカ

『馬鹿』とは馬と鹿を間違うような愚かな人(バカ)と思た人は、ブッブーです。

本当は梵語のモハ(Moha)の音写で『大きい』『優れた』という意味なんです。

それが中国語訳の仏典に『摩訶』となって書かれ、それが日本で『バカ』と読むようになったようです。

そうなると『バカにうまい』『バカ力がある』『バカに頭がいい』とは、『とってもうまい』『すごい力がある』『思った以上にすぐれた頭脳だ』という意味になりますね。

これからは『バカ』と言われたら喜びましょう。

それを見て、また『バカ』と言われそうですね。


「おといれだより」平成29年8月号より

非道い

非道い(ひどい)

今は〈酷い〉と書き、むごい・残酷であるという意味で使いますが、仏教での〈非道〉とは、人の行なうべき道から外れた行いのこと。

罪の報いによって墜ちる地獄道や餓鬼道や修羅道や畜生道という人間以下の世界のことを非道といっています。

その非道へ落ちることは、むごく酷いことなので、残酷な行いをする人のことを“ひどい人”というのです。

そうそう、仏教では同性愛者のことも非道なことというそうです。


「おといれだより」平成29年7月号より



皮肉

皮肉(ひにく)

隠禅宗では〈皮肉骨髄〉という言い方をして、皮と肉と骨と髄でできている人間の本質、全人格のことを言います。

また、祖師の信念や思想、行為すべてをいっているのです。

それが転じて、凡人の間では骨身にこたえるような鋭い非難ではなく、皮をチクリと刺すような遠まわしに意地悪く弱点をつくような言い方を皮肉というようになりました。


「おといれだより」平成29年6月号より

ふだん

ふだん

「ふだん着」「ふだんからやっていますよ」の“ふだん”とはどんな漢字でしょうか?

[普段]と書きまーす・・・ブッブ~!!

私も普段と書いていたのですが、不断経(ふだんきょう)というお経があると知り、調べてみました。

不断経とは毎日365日、断つことなしに読む経文のことをいい、不断念仏とは特定の日時を決めて昼夜を通して不断(断つことなく)に念仏を唱え続ける事とあります。

そこで、広辞苑を開いてみると〔不断着=常日頃着る服〕とあり、普段着とも書くとありました。

住職に聞くと、「お経はありがたいことが書いてあるので、あやかりたいという気持から使うようになったが、いつの間にか当て字である普段になったんだろう」とのこと。

そこでもう一度広辞苑を開くと、不断とは〔決断の鈍いこと、煮え切らぬこと〕とありました。

住職いわく、「不断経を読むのは難しいが、まぁこの辺でいいだろうと普段になったんだ、アハハ」


「おといれだより」平成29年2月号より

まじない

まじない

法華経の中に〈理想社会には菩薩ばかりで魔事あることなけん〉とあります。

魔事とは人びとを迷わせ、苦しめ正しい道の行なわれるのを妨げる魔の力を言い、その魔事の無くすることが「魔事無い」になりました。

仏法の力をもって田畑の害虫を封ずるとか、人間に仇をなす「まがつもの(災害・凶事を起こす神)」を払う、病気を治す修法を、現代では魔呪(まじない)と用いるようになりました。


「おといれだより」平成28年11月号より



用心

用心(ようじん)

用心のもとは仏道修行者の心がけのことです。

つまり常に何が起こっても対応出来るように心にとめておく事をいいます。

修行中に心がゆらぎ、集中心がなかったら、“せっかく仏さまが導いて下さっている気配も感じられませんよ”と用心、用心と教えていたのが、いつの間にか万一に供えて警戒しなさいと一般にも広まり、“火の用心”“用心棒”などと用いられるようになりました。


「おといれだより」平成28年3月号より

呂律

呂律(ろれつ)

釈尊(お釈迦さま)の教団では歌や舞いは許されませんでしたが、お経に節をつけて歌うことは許されていました。

そのお経の音楽のことを声明といい、(ろ)と(りつ)という2つの音階があります。

大日寺でもお釈迦さまの徳を讃えて、お坊さん達はお経の最初と終わりに声明を歌います。

ところがみんなと合わない声があると『呂と律が出来てない』と住職に注意されます。

それが転じて言語のハッキリしないこと、特に酒に酔っぱらってもの言うさまを『ろれつが回らない始末だ』と言われています。


「おといれだより」平成28年1月号より

老婆心

老婆心(ろうばしん)

碧厳集(へきがんしゅう)というお経本に「免れず老婆心切なること」とあります。

老婆が子や孫を愛するあまりに、色々と気遣うような事をしてはいけません。

そして親切とは親しさを切ると書くように、自立心を育てなさい!と、諭しています。

それが転じて「自分の心遣いや忠告は度を越しているかも知れないが」と、へりくだって言う意味の言葉となったのです。

ところで、なぜ老爺ではないのかと、住職に聞くと、「女の人は自分の生んだ子やその孫を自分の分身と思うから、人一倍愛する心が強いのだ」といっていました。


「おといれだより」平成27年12月号より



流転

流転(るてん)

『流』とは流れつづけること、そして『転』は次の状態に移ること、転々として停止することがない様をいいます。

そして仏教では生まれかわり死にかわりして、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天人道という六つの迷い道をめぐり続けることを流転すると言っています。

この世は諸行無常

この世のあらゆる現象は変化して止むことが無い。

一瞬たりとも同じままではありえない事だと諭している言葉です。


「おといれだより」平成27年11月号より

くしゃみ

くしゃみ

梵語(ぼんご)でクサンメといい、その意味は長寿なんだそうです。

お釈迦さまがお説法の途中でくしゃみをした時、その話を聞いていた比丘(びく=お坊さんのこと)たちが一斉に「休息万命(くそくまんみょう)」と申し上げたことから日本語のくしゃみに、それが語源となっているとか。

では休息万命の意味をお話しいたしましょう。

心身を休息して長生をするということ、つまり働きすぎずに休息をとって長生きをしてくださいということですね。

比丘たちにとって、あまり一生懸命に厳しく教えるお釈迦さまへの皮肉の意味もあるようにおもえます。


「おといれだより」平成27年3月号より

御託

御託(ごたく)

ごたくとは『くどくどと言うこと』ですが、これがどうして仏教語なのでしょうか?

ごたくは御託宣の略で、「その人に伝えたい事などを神仏が人に乗り移ったり、夢枕に立ったりする事で、その気持ちを告げる事」というのが本来の意味です。

それが転じて、いかにももっともらしい事や、訓戒めいた事をもったいぶってクドクド言う事を皮肉を込めて、『ごたくを並べる』というようになったのですね。


「おといれだより」平成27年2月号より



玄関

玄関(げんかん)

玄の意味は「深遠なる道」。

そして玄関とは深遠すぎて言い表すことの出来ない関門とあり、仏教では奥深い仏道への入口として使われます。

そして寺への客殿に入る門や書院への入口の式台のある場所を玄関と呼びます。

それで一般の家の入口も玄関と呼ぶようになりました。

あなたの家の玄関は深遠ですか?

深遠どころか靴やサンダルでごった返しになっていませんか?


「おといれだより」平成27年1月号より

香水

香水(こうすい)

仏教では『こうずい』と読みます。

インドでは体臭を消すために香りのよい木から香料を取り、その香料を身体にぬったり、部屋で焚く風習があります。

そこで仏教でも仏さまを供養するために水に香や花を入れてお供えするようになりました。

良い香りは仏さまも人の心も清浄(清く汚れのない事)にする役目をもっています。

心さわがしい時、落ち着かない時、そっと香水の香りを楽しんでみるのもよいでしょう。


「おといれだより」平成26年12月号より

二枚舌

二枚舌(にまいじた)

嘘をついたり、つじつまが合わない事を言う時に二枚舌といいますが、仏教では十悪(じゅうあく)の中の両舌(りょうぜつ)のことを指し、罪の深い事として使われています。

こっちではこっちの人に迎合したことを言い、あっちに行けばあっちの人の気に入るようなことを言い、それがこっちの人とあっちの人とケンカになったり、仲が悪くなったりと、人と人との間を裂く結果を生むので離間語(りかんご)ともいいます。

つい口を滑らせて、こちらにおじょうずを言い、そのつじつまを合わせるために、あちらに違うことを言ってしまう...。

身近にこんな人いませんか?

そして自分の行動を振り返ってみて、二枚舌にならないよう気をつけましょう。


「おといれだより」平成26年6月号より

  

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